J. TrondalおよびC. Ansellらの組織論に基づいたガバナンス研究のごく簡単なまとめ

C. Ansell et al (2017) Governance in Turbulent Timesに始まり、M. Riddervold et al. eds (2021) The Palgrave Handbook of EU Crises における危機をめぐる諸分析までの一連の研究をごく簡単にまとめる。(私的まとめであり、各論文の正確な引用は省く)

彼らのガバナンス分析では、現在の公的組織は”変化”を前提としている、という考えがある。この変化が明白に表れたものが様々な”危機”であり、先進各国のこの10年ほどを見てみれば、様々な危機が噴出し、ある種当たり前の現象となってきていると述べる。

もしそうであるならば、こうした変化や危機への対応がガバナンスに当たり前に組み込まれていなければ、効果的に機能することができないと考えることができる。

では、実際に危機に直面し続けてきた組織がどのように対応するかといえば、Ansellらは、それはイノベーションであり、システムが変化し続ける"動態的レジリエンス(dynamic resilience)"なのだと主張する。

このシステムの変化には、いわゆる既存の手段による対応という経路依存の行き詰まりによって引き起こされる組織の根本的変化と、劇的でない改革を常に行っていくことで変化する状況に合わせていく適応的変化の二つがある。

彼らは、危機、言い換えれば、社会が複雑で、変化が早く、様々な矛盾や行き詰まりが発生する状況においては、そのことを前提とした公的ガバナンスが効率的かつ有効であると考え、後者の変化の在り方、すなわち動態的レジリエンスを分析の中心に据える。

そして、適応において重要なのが、最少多様度の法則であり、それに基づいた複雑性の吸収である。適応的なガバナンスは、様々な状況に対応するためのレパートリーを蓄え、必要に応じて様々な手法を切り替えていく。よって、適応的なガバナンスは、経路依存的な安定性と劇的な変化の二項対立で捉えるのではなく、経路依存的な様々な手法によって安定性をある程度確保しつつ、新たな手法を手に入れるための変化も同時に試みるという複合的な性質を持つものとして捉える必要があると述べる。

以上を踏まえて、実際の分析においては、ガバナンスの改革をメタガバナンスの実践と捉え、そのプロセスを組織的側面を中心に分析することを勧める。改革プロセスには、既存の制度が影響する側面と、その時々の状況に応じて即興的に改革プロセスが組み立てられていくという側面がある。例えば既存の制度によって改革プロセスに直接的に関与できるアクターは制限されることが多く、またどのようなアクターが参加するかによってもプロセスは変化する。一方、構造とは関係なく、その時に並行的に行われている別の改革の影響を組織的な経路を通じてうけることがあったり、特に危機のような時間的に差し迫っているような場合には、既存の手段の比重が大きくなる傾向があるため、組織自体は事前に長期的な視点で将来を予測し変化の方向性を検討するという、異なる時間的幅を混在させることも重要になる。以上を踏まえれば、改革プロセスの違いが如何にして改革の方向性の違い、従って結果の違いを生むかについて理解するために、こうした組織的側面は役に立つ。

 

 


まずもって難しいのは、彼らの研究が何かを説明することと、何かについてどうあるべきかという主張が入り混じっているところにある。実際、ScienceとCraftの両方の要素があるんだ、というのような話も出てくる。彼らの主張には説得力があるように感じるし、だからこそ自分の研究で依拠しようとしているわけだが、「本当にそうなの?」という突っ込みに中々答えるのが難しい。科学的に、変化が前提とされているのかどうか、変化が当たり前の状況では本当に動態的レジリエンスが有効なのか、そのあたりの実証が足りていないのではないだろうか?ある現象について、それでしか説明できない、ではなく、その方が(理論的には)良いでは、社会科学系の博論としては不十分だろう

ガバナンスとレジリエンスを考える上で、ガバナンスの一般的な理論としてレジリエンスを論じている研究が多くなさそうなので重要な研究だと思うが、ガバナンスのレジリエンスについて述べているもっと他の研究と対比させることが重要だ

そして、ただの愚痴であるが、慣用句などが結構色々出てきたりするので、英語でよくわからない部分が多く、結構苦戦するのが地味つらい。内容も難しいと思うのでなおさらである

学術会議関連で

この話題もなかなか消費しつくされずに燃え続けていますが、あれからまたいくつか考えたことを、箇条書き程度で書いておく。

 

菅首相や側近の皆さんにとって、ここまで燃え上がっている割に得たリターンが少なすぎるように見える(、というか実際何を得たのだろうか)ので、多かれ少なかれ想定していなかった状況かなとは思う

・これまで公になっていなかった任命拒否が一件、安倍政権時にあったとはいえ、前例を覆すにもかかわらず十分な説明をしないという点には、正統性の欠けるところがあり、油を注いでいる。実は前述の通りで、もし何も考えていなかったとしたらさもありなん

・学問の自由に対する侵害という主張は、問題の規模感がずれているようにも思えるし、一般の人たちの支持も得られそうにないという点で筋悪に見える。学術界にも民主的統制を加えるべきである、というのは一意見としてあり得ると思うし、一種聖域化されてきたところに菅政権としてメスを入れるというロジックは一定程度の有効性があると思う。

・一方で、専門家の相互間の監視という正統性確保機能が学術内部の基本システムであるし、これまで統制が効いてこなかったということではないと思う。また、学術会議の利権云々は、諸先生方の、おれたちゃ自分の研究したいのに手弁当で提言とかしてんねんぞという声で片付くと思う。なにより、我々が及ぼす民主的正統性を代理人として確保するはずの菅政権に、その資格があるかといわれると、個人的にはないと思う。まともに説明もしないし。

・では抗議をどのようにすべきかという点で、学会声明などが各会員からの投票などでなく、理事会決定で出されたりすることに対する、それにも正統性なんかないやんけ、という批判ももっともだと思う。

ということで特に落ちも結論もないが、結局これも、長い間少しずつなされてきた政府からの統制の一種であるように見えるし、その点で大勢に変わりはなく、私としてはあきらめムードである。ペーペーだし、自分のことでいっぱいいっぱいだし。いずれにせよ、個人としてこの任命拒否は間違いであると思うという意見表明だけはしておこうと思う。

日本学術会議からの推薦に対する首相の拒否について

今日(2020年10月3日)、朝日の一面を飾っており、Twitterでも先生方がそれはもうえらい勢いでつぶやいておられるので、曲がりなりにも学問に関わる人間として、二言三言言及しておく。

digital.asahi.com

 

 ざっくりとした事件の概要としては、これまで日本学術会議の人選について、法律上は会議が推薦し首相が任命するという形になっていたところ、少なくとも現在の会員の選び方になって以来初めて、名簿に書かれた一部の候補者が首相の側から拒否された。そのため、首相による学問の自由に対する侵害だということで、大きな議論になっている。

 首相は、拒否は法律上問題ないものというスタンスである一方、朝日の記事によれば1983年の政府答弁で、原則的に推薦を拒否しないという旨を述べており、法律に対する政府解釈の変更なのかといった面から野党などから追及がなされている。

 内閣法制局は、内閣府から拒否が法律上問題ないかどうか、2018年と今年の9月に相談を受けており、これに問題ないと答えていることが分かっている。Twitterでは、前々から準備を進めており、菅首相は単に仕上げをしただけではというつぶやきもあり、竿ありなんという感じである。 一方、学者の足の引っ張り合いの中で、菅首相に何かしらささやいた人が居るのではという予想もTwitterでは飛び交っている。

 いずれにせよ、今年の春先の検事長定年延長問題と同じように、憲法や国家の基本システムあたりの主要論点に差し障りそうな問題を、法律のグレーっぽい運用でごり押ししながら、人事で相手をコントロールしていくというのは、安倍政権からの傾向であるように思う。

 しかし、2日の宇野重規先生のコメントにそのまま賛同するのだが、自分を批判する人を排除していくような姿勢というのは、自由民主主義を掲げる国家のリーダーとしては相応しくない。

 まぁ、雑魚院生なので特に心配することもないとは思うが、もし時の政権から拒否されるようなことがあっても、毅然と対応する心の準備はしておき、自分の周りだけでも自由に批判できるような空間を作れるよう努力していきたいと思う。

2か月後の「なぜ博士課程にいるのか?」

ご無沙汰してしまいました。

怒涛の5月が終わり、心に余裕の生じた6月は少し基礎体力作り的なものに時間を割きつつ、来週末にコースの発表があるので、「さて進捗ありませんがどうしますか」状態で今この記事を書いています。

進捗報告のコース発表なので、準備のために改めて研究の目的などを見返したりしていると、また自分の生き方、もっというと何のために研究するのか、みたいなものに思うところがあったので、そのあたりを書き残したいと思います。

また結論だけ先に述べれば、自分の研究の使命とは、ますます予測が難しくなりつつある現代社会において、自らの人生を自分で掴んでおくための、今という文脈に沿った形での、考え方・問題への向き合い方を示すと同時に、そうしたことを考えるための道具を整理することなのかもしれないと思い始めました。

これは自分にとって差し迫った問題であると同時に、同様の問題に直面し、上向きの未来を想像しにくくなっていると言われる同時代の日本の人々に、自分なりの答えを示し、それを自ら実践することでもあります。

 

以下はこの結論に至った途中経過です。

jofu117.hatenablog.com

以前この記事で、博士の意味とその後のお仕事に関する今の考え方みたいなものを書き残しました。(ちなみに私以外に数人しか目にしないであろうこのブログで、この記事が一番見てもらった記事になってます。)

それに関連して、自分の研究には使命がない、ということも常々頭にありました。

研究をしている学生のなかには、例えば、自分がマイノリティであることに起因する過去の経験などが原動力となって、そこから自分の研究と社会とを結びつけている人もたくさんおられると思います。

一方で、私は幸いなことに(これは本当に幸福なことだと思いますが)、これまであまり苦労することのない人生を送ってきました。私が考えるべきことは、どう身を立てるか、何を成すかだけだったとも言えます。社会に何かインパクトを与えたいと思いつつ、自らの人生に由来するような解くべき特定の問題というのは特になかったわけです。それは研究にも表れていて、研究者になりたいと思ったときにはまさか扱うとは思っていなかった分野を今は研究しています。

 

それが、最近たまたまジュンク堂で見かけたこの本を読んで、

迷いを断つためのストア哲学

迷いを断つためのストア哲学

 

自分がなぜ今の研究テーマに興味があり、それが自分の人生、ひいては社会的意義とどう繋がるのかのある種の確信を得ました。

(タイトルが少し自己啓発本っぽくてあれですし、実際そうなのですが、中身はストア哲学のある種の入門書になってます。翻訳の文体も読みやすいです)

この本によれば、自分にコントロールできない事柄は成り行きに任せ、コントロールできることに集中するというのはストア派の重要な考え方のひとつです。しかし、私はこれとほぼ同じ意味のことを述べる、ニーバーの祈り - Wikipediaを先に知っていて、これを自分の考え方の基礎の一つにしていました。

これとは別に、善く生きるということがどういうことなのか、一時期にいくつか本を読んでいたことがあり、そのことが今の私の考え方の基礎になっていますが、この祈りに魅かれたことは、ストア派を一つの源流として、善く生きるということに繋がっていたわけです。

そして、この、コントロールできることに集中する、というのが、自分の研究の基礎にあります。何が起こるか予測できない(コントロールできない)のであれば、それを踏まえて、どのように準備するかが重要だからです。こうした問題のために、今、そしてこれまで、どのような組織が存在し、どのような仕組みでこうした状況に適応するのか、それが極めてざっくりとした研究関心になります。

こうして、いわば組織のレベルでどのようにして今を生き抜いていくのか、それを考えるための一定の指針のようなものを示せれば、それは私だけでなく、同じ時代を生きる誰かにとっても意義があるのではないか 考えています。

Volkmer, I. (2003). The Global Network Society and the Global Public Sphere.

〇イントロ

Volkmer, I. (2003). The Global Network Society and the Global Public Sphere. development. 46:1; pp.9-16.

 

今回の論文は、国際的な公共的領域に関する議論を扱ったものです。

著者は、ハーバードやLSEで教鞭をとってきた人で、デジタルコミュニケーションやビッグデータが、トランスナショナルなコミュニケーションのためのモデルをどのように形成しているのかを研究しているようです。

https://www.findanexpert.unimelb.edu.au/display/person155840

 

この2003年の論文は国際的な公共的空間に関する議論の系譜をさっと確認したうえで、国際報道の発達によって、国家のコントロールを迂回する形で情報の流れが形成され、グローバルとローカルのレベル、普遍的価値と個別的文脈、ネットワークの水平と垂直へと、世界市民を形成するプロセスが再構成されてきているということを主張しています。

このテーマについては知識が乏しく、問題意識の段階から理解できていないところがありますが、内容をまとめていきたいと思います。

 

また、基本概念のメモとして、以下を抜粋しておきます。

   齋藤純一『公共性』(岩波書店、2000)、p.x

複数形の公共 publics=公共圏:「一定の人々の間に形成される言論の空間」

単数形の公共 public space or public sphere=公共的空間:「さまざまな「公共圏」がメディア(出版メディア・電波メディア・電子メディア等)を通じて相互に関係しあう、言説のネットワーキングの総体を指す」

⇒前者が特定の人々、後者が不特定の人々によって、それぞれ構成される言説空間

 

〇本編

ナショナルな公共的空間の国際化と拡大

・共通の場としての「世界」は哲学における概念として古くから存在した。

・国境を越えた情報の流れも21世紀に限定される現象ではない(ヨーロッパにおける商人、貴族や修道士のようなエリートの間のやりとり)

・19世紀の終わりごろまでには、報道の自由が人権として欧米で認識されたことや、技術発展によってマスメディアとしての性質を持ったことで、新聞などの印刷物が商業化されている

・これは外国の情報に関する需要と並行して拡大してきた

・この需要と、19世紀ヨーロッパで出現した”public”に応えるために、whole sale news agencyが登場した(ロイターとか)

・植民地管理のための世界規模の通信システムの登場によって、政治情報の国際化が起こった

・20世紀の衛星通信によって、海外情勢に関するニュースは"global" communicationに関する議論の出発点になった

地球村*1から、多様化された国際的な公共的空間へ

・20世紀の国際的なコミュニケーションは国民と社会的エリートの間のコミュニケーションの意味で言及された

・外国のある出来事について、各国に同時に情報が伝わることは、マクルーハンによれば、多様な社会が、文化的・社会的・政治的視点から同じ信号やメッセージを受け取るという意味で、根本的な衝撃をもっていた。→グローバル化の議論の出発点

・冷戦期は、その混乱が世界的関心を集めたことによって、世界が、共通の空間として認識する契機となった

・技術の発展はこうしたグローバル化を複雑で多様なものにした→点と点(ネットワーク)/点と複数の点(テレビ)

トランスナショナルな政治ニュース空間=新しいグローバルなニュース空間

・これはナショナルな空間に衝撃を与える

①ナショナルな公共的空間における国外と国内のニュースの文脈の並走状態を洗練する(例えば、ドイツの放送局とトルコの公共放送のそれぞれが同じ出来事についての情報を同じ人に伝える)

→世界規模のトランスローカルな公共的空間

②このトランスローカルな空間は、先進・新興・途上国に動揺に衝撃を与え、典型的なアジェンダセッティングの階層を越えて、独自の自己言及的な政治空間を形成する。

CNN効果

→拡張された越境的政治空間は国家の政治戦略に影響するし、また、グローバルな政治空間が存在するという想像は国家レベルの政治における新たな影響力となる

・CNNを例にとると、世界中報道関係者が、さもなければリーチアウトしなかったであろう人々にまで、world reportの枠組みで情報を伝えることにより、新たなプレイヤーとして、政治空間に参入することになった。

→新たにグローバルにネットワーク化された個人

・既存のニュースインフラはこのネットワークのハブになっている

・このネットワークは国家の情報統制を迂回する副次効果を持つ

・双方向的な情報の流通は、政治的な過激派に世界規模で発信する機会を与えた

トランスナショナルなミクロ空間が、国家を超えて拡張している政治空間を変容させている

国際的な公共的空間と弁証法的空間(Global public sphere and dialectical sphere)

・こうした中で、ジャーナリズムも変容している。

・国際的公共的空間とミクロ空間や、様々な政治メディア環境を仲介、調停する役割をもつようになっている

・しかし、既存の国際コミュニケーション理論の枠組みは国家がベース単位になっている。

・グローバルな空間とミクロな空間を、どううまく弁証法的に理解していくかが重要ということ?

〇メモ

・ちょっと門外漢過ぎて、どうコメントすればいいのかわかりません(し、そもそも内容がよく分からなかった、、、)が、実証研究のベースとしてこの議論を用いるならば、やはり国際的な公共空間が存在することを確認していく作業(もしくは確認した先行研究)から始まるでしょうか

・少なくとも中心となる主張は、言説空間における国家という単位の後退と、ミクロレベル・グローバルレベルでの言説の重要度の拡大ということだと読み取ったので、質的研究として持っていくなら、特定のトピックの語られ方を探っていく感じかな?

・世界の理解の仕方(どうなっているのか)の議論だとも思うので、これで何をみるのか、この理解の仕方でこれまで分からなかったどんな面白い現象を捉えられるのか、というのが、読み手を引き付けるポイントになるかもしれません

・そこから、なぜそんな面白い現象が起こっているのか、に繋がっていくはずです

・言い換えると、この論文単体ではかなり大きな議論に見えるので、修士論文として、これをどうリサーチクエスチョンに落としこんでいくのかが気になります。

 

角倉一郎『ポスト京都議定書を巡る多国間交渉:規範的アイデアの衝突と調整の政治力学』(法律文化社、2015)

〇イントロ

ブログを週一ペースで書きたいと思ってましたが一か月で挫折しました笑

うまくいかなかったので、何かやり方を考えないといけないですね。

 

とりあえず今回は、院生勉強会の第三回に向けて、メモを残しておきます。

今回の論文は、外交交渉を分析するための理論枠組みとして、気候変動問題を巡る多国間交渉を分析したものを読みます。これを使いたいと考えている院生は、イランの核開発を巡る外交交渉に応用したいようです。

ブログ、がっつり書くと続かないと気付いたので、できるだけ簡潔にまとめていきたいと思います。

 

〇本編

角倉一郎『ポスト京都議定書を巡る多国間交渉:規範的アイデアの衝突と調整の政治力学』(法律文化社、2015)

問い

・ポスト京都議定書に関する交渉で、実効性の高い日本の案ではなく、EUアメリカの提案を軸に合意形成がなされたのはなぜか?

・より広い問いとして、「なぜいずれかの主張や提案が優位になり、他はそうならないのか?」

先行研究

・国際レジーム形成における規範の作用について

山本、渡邊より、①すでにあるレジームが取り込まれるパターンと制度化されていない段階の規範は区別するべき、②対立競合する規範的アイデアは相互作用しながら形成・維持・発展する

 

・国際規範の形成過程における規範の競合の政治力学について

Florini:規範が生き残る基準は、生き残れる程度に目立つか、先行規範との整合性、生き残りに有利な環境か、が重要

FInnemore and Sikkink:規範のライフサイクルのうち、カスケードが起こるためには、規範起業家の説得が重要であり、その上で①規範を提唱している国家が成功し、モデルとなっているか、②規範が明確で特定しやすく(形式面での本質的な特徴)、先行規範との近接性が高いか(実質面での本質的な特徴)が重要

⇒規範間の調整をちゃんと取り扱っていない=説得や討議が重要

 

・政策アイデアの衝突と調整について

Kingdon:政策を巡る専門家コミュニティでの議論を生き残りアジェンダ候補になるためには①実現可能性、②政策コミュニティ内の価値観との整合性、③アイデアが実施までに直面する制約を乗り越えられそうか、が重要

Sabatier:規範を唱道する集団間は、プロセスを通じて自らのアイデアの欠点を学習し、修正する

⇒アイデアの中身が重要と言っている有用な研究=だから踏まえないといけない?

 

・説得と討議のプロセスについて

Habermas:コミュニケイション的合理性が成り立っている議論であれば、①真理性、②正統性、③誠実性の三つの要素をクリアすると、妥当性があると考えてよい

Risse:「討議の論理(logic of arguing)」が成り立つ状況であれば、①主張が事実に即しているか、②主張が道義的に正しいか、③発言者の誠実さ、で妥当性を評価できる。討議の論理的状況はあくまで理念型だが、小国が大国の主張をひっくり返すような状況は実際ある。

阪口:国際レジームの原理や規範を共有している「緩やかに社会化された状況」では、①事実・科学的知識との整合性、②レジームの規範やルールとの整合性、③発言の一貫性、で評価できる

 

経済的利益やパワー、その他の要素と規範との間の相互作用

Young and Osherenko:これら三つ+リーダーシップと文脈

山本:相互作用の例について

分析枠組み

・「規範的アイデア」というレンズを使うことで、制度化する前のアイデアが制度化する過程として交渉を捉えられる

・見るのは妥当性を巡る三要素だが、先行研究を踏まえて、①真理性は、世界全体の温室効果ガス排出削減の実効性、②正統性は、気候変動レジームの一部としてこれまで制度化されてきた先行規範との整合性、③誠実性は、誠実性に関する評判、と設定して分析する

・規範だけで採用されるわけではないので、パワー要因と経済的利益要因も見る

〇コメント

交渉においてアイデアが重要になるための「緩やかに社会化された状況」とは、パワーゲームの段階を抜けて、議論の説得力が重要になった状況のこと、と私は理解しているが、イランのケースはまだパワーゲームの要素が強そうだな~という小並感

まじめに考えると、この「状況」が成り立つためにはレジームがある程度成熟している必要がありそうなので、どのアイデアが勝ち残るかについては経路依存の要素がかなり強く、討議や説得の影響度は下がりそうにも見える。もちろん、その上で何が選ばれるかが重要であり、そこが見たいということなのかもしれないが。

また、イランの核開発を巡る交渉においてP5+1の間で何らかのレジームが存在していると言えるのだろうか。ここらへんはイランの核開発に関しては全くの素人なので何とも言えないのですが。

規範的アイデアは、こういった新しい概念を出さなくとも、各国の主張、でええやんけという批判を想定して、いや、アイデアは各国に固有の背景から出てきてるものだから、採用されるときに見られているのはコアの部分だし、このコアを抽出するためにはレンズを用意しないといけないんですよ、という正当化は説得力があっていいなと思いました。

枠組の部分は、あくまで理論を整理して、この事例に適用してみました、という感じなので、理論へのインプリケーションがどうなっているのかは気になるところ(今回の勉強会で読む範囲ではないが、これを使う上でも重要だと思う)

 

レビュー論文の読み方・扱い方

※とりとめもなく書いてしまったので、先に結論を。レビュー論文を読みながらも、具体的なリサーチクエスチョンをひねり出せず、理論をぐるぐる回って抜け出せなくなったら、そのレビュー論文の中から、えいやっと扱う理論・概念を決めてしまうのも一つの手です。その上で、その理論や概念に関する研究史を辿って、研究の穴を見つける、というのが、レビュー論文の使い方の一つかもしれません。

 

〇イントロ

今日、みんなで論文を読む会をやってきました。前回の記事でも少し言及したように、今回の論文は社会運動論とテロに関するレビュー論文でした。

しばしば、文献調査に関して、書籍やブログ記事、Twitterなどで言われていることとして、レビュー論文を見つけて、そこからこれまでに解かれていない問いを探す、ということがあります。

でも、実際にレビュー論文をどう使えばいいのか、具体的に教えてくれるものは少ない気がするのと、自分の経験として、そこから自分の論文の問いに落とし込むまでにえらく時間がかかったということがあり、実際どうすればよかったのか?というのが今回のお話です。

 

〇レビュー論文:大きな流れと支流

院生の研究初期の心強い味方、レビュー論文。トピックに関するこれまでの研究を整理し、今後の研究の道筋を示す、なくてはならない存在です。私も大変お世話になっております。

とはいいつつ、実際にそのレビュー論文でこれからの研究課題として挙げられていることと、自分の関心が合致するとは限らないですし、むしろそこで挙げられている一部の議論に関心があって読んでいるということのほうが多い気がします。

さらに、学部や修士の段階であれば、例えばEUエージェンシーに興味があって、EUエージェンシーというタイトルのレビュー論文を読んでいることだってあるわけです。(ちなみにこのテーマに興味があるなら、例えばこれをどうぞ)

www.duo.uio.no

しかし、そのままだと、卒論や修論のためのリサーチクエスチョンは出てきません。なぜなら、多くの場合、レビュー論文はある種のカタログであって、こういう話もある、ああいう話もあるという形式をとっているために、そこから問いを作るにはもうワンステップ必要だからです。

そのステップとは、レビュー論文で提示されているいくつかの議論のうちの一つあるいは複数に関する研究史の掘り下げです。

レビュー論文は、多くの場合、その時点での研究の到達点を示すものであるため、カタログ化された各項目間の関係はそのトピック全体の流れに沿って関連付けられます。

例えば、ある時期に合理性を強調する議論が隆盛し、その後それを批判する形で文化に着目する研究が登場するといった形です。

そして、各理論や視点について、レビュー論文では紹介されなかった様々な研究が存在しています。そこでの議論は、その理論が登場する以前の研究や、登場した後の批判を考慮しながら蓄積されていきます。

つまり、テロと社会運動論という大きなトピックにおける研究の流れの中に、資源動員論の支流、フレーム理論の支流、あるいは社会運動の暴力化に対する国家の影響だとか、各社会運動間の相互作用に関する研究といった支流が存在しているわけです。

この大きな流れは、リサーチクエスチョンとしてはしばしば抽象的で大きすぎます。大きな流れの話をするためには、それぞれの支流の話を踏まえる必要があり、それらを統合して何らかの答えを出すというのは、能力や経験、時間を要求されるからです。

卒論や修論といった、期限が区切られており、かつその期限が短いような場合には、現実的に研究をデザインしようとすれば、そのうちの一つか二つ程度について検討することになるでしょう。

あとは、レビュー論文で提示されたそれぞれの支流の代表的な論文から、芋づる式に文献を調査していけばよいのです。それを自分なりに整理すれば、卒論や修論の先行研究としての厚みが出てくるでしょう。

 

〇迷ったらどうするか

しかし、私の場合はここからどの支流を選ぶのかで大変難儀しました。

だってどれも説明として魅力的だし、それぞれが提示する要素は全て重要に見えるもの。

実際、どれも自分の関心が置かれている大きなトピックの一面を照らしているわけで、大きく間違っているとかも、一見してないわけです。しかも、それぞれの視点から説明されているものを全体的にみると、もはや自分が何かを付け加える余地すらないかのようにも見えてきます。ここから支流を掘り下げてみると、問いが見つかったりするわけですが・・・

学生の場合は、ここで指導教員と相談したりして、良い支流、悪い支流に関するアドバイスがもらえたりしますが、自分のテーマと先生の専門がそこまでマッチしていないと、もはや自分でやるか、ほかの先生に聞きに行くとかになってきます。

先生の側としても、なかなかアドバイスが難しかったりするんだろうなと思うところもあります。

いずれにせよ、ここで扱う支流を選ばなければ、具体的なリサーチクエスチョンを出すのが難しくなります。

私としては、一つの手として、勘や好みで選んでもいいのかなと思います。そりゃ、爆死しないか念入りに検討する時間があればいいですが、それだと卒業・修了できませんから。卒論であれば、学問的な知見を付け加えることもほとんど求められていないと思うので、十分だと思います。修論も、大きな流れを意識しつつ、ほかの支流との関係を踏まえて今後の課題を提示できれば合格なのかもしれません。

博士になると、議論が尽くされているか、近年の研究動向はどうなっているかなどを踏まえて各支流を選び、最終的に統合するというところまでいくのでしょう。できてませんが。

 

 〇おわりに

だらだらと書いてしまいましたが、大きな流れと支流というのが、自分の研究と先行研究の関係性を捉える現時点での理解になります。そうじゃないんじゃないの?などあれば、コメントいただければ大変ありがたいです。

しかし、こういうノウハウみたいなのって、体系的にまとまってるわけでもないし、代々受け継がれる技みたいな感じがするので、やはり勉強会は大事ですね。