なぜ博士課程にいるのか?

これを書いている現在(2019年5月6日)、学会発表と学振の締め切り前で、本当にこんなことをしている場合ではないわけですが、ここのところずっと考えていて大切なことだと思ったので、書き残しておきます。

我々、生きていればその都度、自分が今やっていることを振り返ります。特に、Facebookなどで誰かの成功を目撃してしまったとき、そうした行為が意味のないことと信じていたとしても、やはり比べてしまいます。

「あいつはあんなに成功している。成功するために努力もしたのだろう。その努力を貫徹できる人格がうらやましい。それに比べて俺は」

まぁなんかちょっとズレている気がしないでもないですが、私なんかはこう思うわけです。

今回はそういう振り返りの話です。

 

私は今、博士課程にいて研究をしています。

私なんかは本当に幸運なことに、この年になってもあれこれお金まで出してもらっています。

いつまでも働かず(バイトはしていますが)、戻ろうと思っても後ろにはすでに道はなく、そうまでしてなんで博士課程にいるのか。

最初は、会社勤めはうんざりしそうだし、だれかと難しいことを議論したり、新しいことを勉強したりといったことが楽しいから、もっとやりたいなと思って研究者の道を選びました。テキパキ行動するタイプでもないので、就活もせず、あまり考えてませんでした。

 

それでも何となく予感はありました。結局自分でやんないと、これからの社会はサバイブできねーんだろーな、と。

平成の頭に生まれ、地下鉄サリン事件、9.11テロ、二度の震災、あと、なぜか印象に残っていることとして、ロシアのグルジア侵攻、翻って経済の方は失われた20年がもはや30年か?みたいな状況であり、先日も経団連が、「終身雇用なんてなかった」なーんて言ってるのを見ると、自分で考える能力が必要なんだなといつの間にか考えていました。

 

そして、博士号は、実態に関するあれこれの議論はとりあえず置いておいて、問題すら定まっていないところからスタートし、ゼロから考え抜いて、いずれかの手段でそれを解く能力の証明なんだなと思うようになりました。

だから、本当にアカデミアに行きたいのかというとそうではないような気が最近はしています。もちろん、アカデミアはその能力を使いこなして生きていく社会である以上、最も望ましい進路のひとつではあります。

でも、この能力が役に立つ場所がどこかにあって、それでご飯を食べていけるならどこでもいいなという気がしています。実家に戻って家業を盛り立てるため頑張るのでもいいし、バリキャリのお嫁さん捕まえて、あれこれサポートするのも面白そうです。

そういう意味での完成形はやはり読書猿さんで、つい最近出たこの対談は自分にとってのロールモデルを一つ提示している気がします。まぁ足元にも及びませんが。

hatenanews.com

最近はうちのお父ちゃんも、いい加減金は出さんぞみたいなことを言い始めているようなので、もしかしたら博士を完遂できないかもしれません。特に自分は、自分の軸を持つことが大切で、その大きな部分を専門性が担っていると思っているので、その意味でもそういう事態は、自分のアイデンティティの問題として好ましくないでしょう。

でも、自分の当面のゴールがそうした知的サバイバル能力の獲得にあるならば、一時中断したり、別のルートをとることだって可能なのかな、と今は思っています。

30台フリーターでも、健康で本が読めればなんとかなるに違いない。

 

そんなわけで、今はともかく学会発表という修行を乗り越えて、能力獲得に邁進するときですね。

原稿と申請書とポスター作ってきます。