2か月後の「なぜ博士課程にいるのか?」

ご無沙汰してしまいました。

怒涛の5月が終わり、心に余裕の生じた6月は少し基礎体力作り的なものに時間を割きつつ、来週末にコースの発表があるので、「さて進捗ありませんがどうしますか」状態で今この記事を書いています。

進捗報告のコース発表なので、準備のために改めて研究の目的などを見返したりしていると、また自分の生き方、もっというと何のために研究するのか、みたいなものに思うところがあったので、そのあたりを書き残したいと思います。

また結論だけ先に述べれば、自分の研究の使命とは、ますます予測が難しくなりつつある現代社会において、自らの人生を自分で掴んでおくための、今という文脈に沿った形での、考え方・問題への向き合い方を示すと同時に、そうしたことを考えるための道具を整理することなのかもしれないと思い始めました。

これは自分にとって差し迫った問題であると同時に、同様の問題に直面し、上向きの未来を想像しにくくなっていると言われる同時代の日本の人々に、自分なりの答えを示し、それを自ら実践することでもあります。

 

以下はこの結論に至った途中経過です。

jofu117.hatenablog.com

以前この記事で、博士の意味とその後のお仕事に関する今の考え方みたいなものを書き残しました。(ちなみに私以外に数人しか目にしないであろうこのブログで、この記事が一番見てもらった記事になってます。)

それに関連して、自分の研究には使命がない、ということも常々頭にありました。

研究をしている学生のなかには、例えば、自分がマイノリティであることに起因する過去の経験などが原動力となって、そこから自分の研究と社会とを結びつけている人もたくさんおられると思います。

一方で、私は幸いなことに(これは本当に幸福なことだと思いますが)、これまであまり苦労することのない人生を送ってきました。私が考えるべきことは、どう身を立てるか、何を成すかだけだったとも言えます。社会に何かインパクトを与えたいと思いつつ、自らの人生に由来するような解くべき特定の問題というのは特になかったわけです。それは研究にも表れていて、研究者になりたいと思ったときにはまさか扱うとは思っていなかった分野を今は研究しています。

 

それが、最近たまたまジュンク堂で見かけたこの本を読んで、

迷いを断つためのストア哲学

迷いを断つためのストア哲学

 

自分がなぜ今の研究テーマに興味があり、それが自分の人生、ひいては社会的意義とどう繋がるのかのある種の確信を得ました。

(タイトルが少し自己啓発本っぽくてあれですし、実際そうなのですが、中身はストア哲学のある種の入門書になってます。翻訳の文体も読みやすいです)

この本によれば、自分にコントロールできない事柄は成り行きに任せ、コントロールできることに集中するというのはストア派の重要な考え方のひとつです。しかし、私はこれとほぼ同じ意味のことを述べる、ニーバーの祈り - Wikipediaを先に知っていて、これを自分の考え方の基礎の一つにしていました。

これとは別に、善く生きるということがどういうことなのか、一時期にいくつか本を読んでいたことがあり、そのことが今の私の考え方の基礎になっていますが、この祈りに魅かれたことは、ストア派を一つの源流として、善く生きるということに繋がっていたわけです。

そして、この、コントロールできることに集中する、というのが、自分の研究の基礎にあります。何が起こるか予測できない(コントロールできない)のであれば、それを踏まえて、どのように準備するかが重要だからです。こうした問題のために、今、そしてこれまで、どのような組織が存在し、どのような仕組みでこうした状況に適応するのか、それが極めてざっくりとした研究関心になります。

こうして、いわば組織のレベルでどのようにして今を生き抜いていくのか、それを考えるための一定の指針のようなものを示せれば、それは私だけでなく、同じ時代を生きる誰かにとっても意義があるのではないか 考えています。