J. Gunning "Social movement theory and the study of terrorism" (院生勉強会企画1)

〇まずは余談から

なんとか無事に学振の学内〆切に間に合い、学会ポスター発表も終えることができました。

ポスター発表については、まだまだ小さな学会ですが、蓋を開けてみれば奨励賞をいただき(発表者は他にあと数人だけでしたが)、いろいろとフィードバックや気付きも得ました。発表する中身もないままヤバいヤバいと言いながら応募し、爆死覚悟で突っ込んだ割には良い結果を得られたと思います。

 〇イントロ

さて、今回は、以前からやろうやろうと言っていた院生勉強会にそろそろ着手するため、その内容やメモなどをここに残していきます。

うちのように、研究者志望の院生があまりやってこないコースでは、こういうことも意識的にやって、なんとか環境を構築していかないと身につけることが期待されるであろうアカデミックな能力の成長に繋がらないため、遅ればせながら整備していきたいと思います。

その一環として、ここではそれぞれの修論や博論において、自分たちが依拠したり反駁したりする対象となる主要な論文を皆で読み、自分の理解を確認しつつフィードバックを得る機会にしたいと思っています。

所属コースではそれぞれのテーマも多様で、突っ込んだコメントもなかなか難しく、研究も突き詰めていくと自分のテーマについて話し合う仲間が減っていきます。そうすると、専門的なフィードバックが得られなくなり、自分の研究に対する理解に自信を持てなくなってきます。

その点、各人が厳選した論文であれば、範囲外の人間でも読む価値があるでしょうし、それによって知識がつけば、定期的な博論・修論発表の場でのフィードバックも有意義なものになっていこうというものです。

 

今回は批判的テロリズム研究に関するテキストの中の、社会運動論(Social movement theory:SMT)の章を扱います。

J. Gunning (2009), "Social movement theory and the study of terrorism," In R. Jackson et al. (eds.), Critical Terrorism Studies A New Research Agenda, London: Routledge, pp. 156-177.

著者はキングスカレッジロンドンの中東研究センターの教授であり、批判的テロ研究を確立した人物のうちの一人です。この本の編者の一人でもあります。専門は政治動員に関する研究で、イスラム社会運動、民主化、宗教、政治的対立(political contestation)、暴力の間の相互作用に焦点を当てています。パレスチナハマスに関する研究で有名で、2011年のエジプト革命における社会運動理論に基づく分析なども行っているようです。今はレバノンヒズボラを研究中。(https://www.kcl.ac.uk/people/jeroen-gunningより)

 

このテーマも私は全くの素人ですが、テロの組織的な側面は自分の研究と接するところもあり、またいろいろとハイブリッドな理論的説明をしようとする点は自分の依拠する研究ともよく似ていて、勉強になる章でした。直訳ですし、具体的な個別の研究には言及しませんが、どういうことが書かれているか、滅茶苦茶ざっくりとまとめていきます。個別研究の詳細が知りたい方は元の文献を読んでください笑

〇社会運動理論とテロ研究

■イントロ

・ここでは社会運動理論(SMT)がテロ研究に役立つということを述べる。

・テロ研究はしばしば、各事例の小規模な地下組織に焦点を当ててきたが、それらの組織はより広い社会運動や対立する相手との相互作用の中にあり、そこから影響を受けている。

・社会運動(social movements)は次のように定義できる。すなわち「(1)非公式のネットワークであり、このネットワークは(2)共有された信念と連帯に基づいていて、(3)対立的なイシューに関して動員し、(4)様々な抗議形態を頻繁に用いる」(p.156)

・SMTはCoxが提示するような批判理論の文脈にあり、マルクス主義ポスト構造主義的アプローチの影響もうけている。

・SMTはオーソドックスなテロ研究が浴びてきた批判(歴史や文脈、および国家の対応とテロ活動に対する影響といった要素を無視してきた)に応えることができる

■社会運動理論の概観

・相対的価値はく奪:暴力的な反乱はシステム的な不平等に対するフラストレーションによって引き起こされる(社会心理的説明)

・資源動員論:運動の発生に対する社会心理的説明に対する批判として、合理的選択論の観点から登場。運動とは社会的ネットワークが存在することに伴う機能であり、資源、エリート、革新的なmobilisatory(テクニカルターム?)、運動戦術へのアクセスのことである。

・政治過程モデル:社会的な構造、合理性だけでは運動の発生や、運動が特定の形態をとることを説明できない。運動とは社会ネットワークや資源の機能であり、また政治的機会構造のなかで発達する。マルクス的な構造の影響は不可避ではなく、改善できると考える。

フレーミング理論:文化に着目し、運動に携わる人々、特に運動起業家(movement entrepreneurs)の認識がどのように枠付けされるか、から運動を説明する。

・新しい社会運動論:文化に着目し、長期のマクロな社会、政治、イデオロギーの変化を考える。特に脱工業化社会の運動の、非階層性、階級ではなくアイデンティティやライフスタイルへのフォーカスといった要素に特徴づけられる新しい社会運動論に焦点を当てる。

■SMTのテロ研究における重要性

・SMT研究は非暴力運動が主流なのになぜテロ研究に使えるのか?

①過激派組織は資源、人員調達、優れたイデオロギー的正当化を見つける必要がある

②過激派組織は典型的にはより広範な社会運動の一部であり、過激派の人々はそうした運動の中で活動を開始し、運動や外的な出来事の影響を受けて過激になる。

③テロ戦術を用いる現代の組織の多くが典型的な「新しい社会運動」の特徴を示している

■テロ研究を広げる

暴力を文脈で考える

・SMTによって、社会的文脈における暴力の位置づけを探れる

・運動の手段として、

①運動の中で行われる様々な行動の一つとして暴力を見る

②より広い社会運動の内部や周辺での競争の一部として暴力見る

③個人の性質の結果ではなく、組織内部の動態の結果として暴力を見る

⇒運動として考えれば、暴力はSui generisな現象ではないし、そう考えることでテロ組織の非暴力的な側面の存在を意識できる

⇒暴力とは、社会運動全体における激しい論争や派閥間闘争の産物であり、構成員の認識やアイデンティティ、資源などが暴力に影響する

暴力を時間で考える

・組織の発展には当然歴史的背景があるし、暴力が規範として確立される前には、国家やほかの組織との敵対的な相互作用が、通常は存在する。

・SMTを使えば、歴史的経緯の中で起こる、社会と組織の間の相互作用という動態を捉えることができる。

・また、SMTは運動戦術の時間的な流動性を強調する(Tarrowの’protest cycle’)。つまり、運動には暴力フェーズと非暴力フェーズがあって、変化している。

・SMTはなぜ、どのように組織が暴力から離れるのかを分析できる。

・SMTは、運動の経験や、運動がprotest cycleにおけるフェーズのどこにいるのかということが、暴力の選択にどのように影響するのかを分析できる

⇒つまり、社会経済的要因や、心理的な特徴による静態的な暴力の説明ではなく、運動や関係性の変化による動態的な説明が可能。

レベル横断的説明(micro, meso, and macro)

 ・システム的な不均衡に着目するマクロ分析は、暴力を改革や急激な変化の不在、不十分な正当化、反対勢力の不足によって説明しがちで、抑圧は軽視されている。

・フラストレーションや心理的要因に着目するミクロ分析は、フラストレーションが暴力に結び付かないケースを説明できないし、実証的な証拠も不十分

・組織のイデオロギーに着目するメゾレベルの分析は、特定のイデオロギーがなぜ採用されるのかを説明できず、また手段と目的の間に直接的な関係があると想定しすぎる。

⇒SMTは三つのレベルを統合し、レベル間の相互作用を説明できる。例えば、イデオロギー論争は、政治的機会構造の変化や組織の発展という観点から分析できる。

⇒このような包括的な枠組みは、比較研究にも向いている。

利益、イデオロギー、構造の連関

・これまでのテロ研究は、戦略的な説明(合理的選択論)、イデオロギー的な説明のどちらかに傾斜し、かつ両者が構造的な変化と切り離されて考えられてきた。

・SMTは、両者を統合し、またそれぞれの要素が集団間の動態や社会・政治構造の変化に影響を受けていることを明らかにできる

国家に焦点を当てる

・SMTは国家による運動の抑圧とその研究に関する膨大な蓄積があるので、テロ研究で見過ごされてきた国家との相互作用をみるにはうってつけ。

組織内の動態に焦点を当てる

・過激派組織の組織形態に関する研究は多かったが、内部の過程やそれに対する組織構造の影響といった研究は少ない

・従来のSMT研究は、運動を一枚岩としてみるものもあったが、近年のSMT研究は内部に様々な動態があることを指摘している。

・そうした動態の組織行動への影響を概念化することは極めて重要で、内部派閥が利用できる資源の違いは彼らの合理的計算にもかかわってくるし、外部の敵を追求するだけでなく、内部のライバルを操作するというのも戦術的に重要である。

・一枚岩と考えてしまうと、組織に対する政策の効果は怪しいものになるので、そういう意味で政策的にも重要。

■テロ研究を深める

テロ研究を「脱オリエント化」する

・SMTを西側でない過激派の分析に適用することは、テロ研究の脱オリエント化に資する。

・非西側の過激派組織はヨーロッパの過激派と違って構造化されておらず、非合理的だというバイアスがかかっていることが多い

・SMTは西側社会運動と同じ概念的地平に、非西側の運動を位置付けることで、このバイアスを取り除く。また、非西側組織の分析からイデオロギーや文化といった要素に着目しなくてもよいようにし、地域の固有性から離れてグローバルな動きの中にそれらを位置付けることができるようになる。

・一方で、SMTが西側で開発されたものであるため、非西側で異なる形で存在する構造や動態を見逃してしまうことにつながる危険性がある。

・しかしこれは、三つの理由でそこまで深刻でない。

①政治システムや社会的文化的規範は、西側内部ですら極めて多様なので、非西側との違いはそこまで重要ではなく、一方で、いくつかの類似性のほうが重要である。

②SMTは主題的な枠組みを提供するので、違いが存在しても、それにフォーカスして整理することができる。

③非西側を特別視することによる歪みがあったとしても、SMT研究内部での批判と内省がある。

自己内省能力と理論的な正確性を高める

・これまでのテロ研究は理論的な研究がほとんどなかった

・SMTは自己内省能力と理論的研究を発展させるための一助となる

〇メモ・コメント

・社会運動理論の歴史が超ざっくりと時系列でまとまってるようで、ほーん、となった。

・企画の趣旨として、依拠する理論をみんなで掘り下げてみる、というものなので、むしろSMTファミリー内のどれ(一つでも複数でも)をどのように使いたいのか知りたいところ。

・例えば合理的選択論とイデオロギー論に依拠して、テロ活動が活発化する要素をそれぞれ事例の中で抽出してみて、その間に何らかの関係性があるのか、とかを考えると、この著者が狙っていることに近づくのかもしれない。

・三つのレベルの統合、レベル間相互作用というのは、こういう過程を見たりする質的研究だとよく見かけるなぁという感想。しかし、実際のところ、それによってみるべき要素や範囲というのは膨大になりがち。

・似たようなアプローチを採用しているので、以前に先生からうけた、どれか一つを突き詰めるので精いっぱいなのでは?という指摘は心に留めておくべきだろう。

〇おまけ

なお、国際関係論における批判理論については

www.e-ir.info

その翻訳

国際関係論の理論 -第6章 批判理論- – Better Late Than Never – Medium

を見ました。

見返してみると、有斐閣のNew Liberal Artsシリーズの国際政治学では批判理論は本当にチラッとしか触れられていない。ほかのテキストだと日本語でしっかり書いてあるのかな?

なぜ博士課程にいるのか?

これを書いている現在(2019年5月6日)、学会発表と学振の締め切り前で、本当にこんなことをしている場合ではないわけですが、ここのところずっと考えていて大切なことだと思ったので、書き残しておきます。

我々、生きていればその都度、自分が今やっていることを振り返ります。特に、Facebookなどで誰かの成功を目撃してしまったとき、そうした行為が意味のないことと信じていたとしても、やはり比べてしまいます。

「あいつはあんなに成功している。成功するために努力もしたのだろう。その努力を貫徹できる人格がうらやましい。それに比べて俺は」

まぁなんかちょっとズレている気がしないでもないですが、私なんかはこう思うわけです。

今回はそういう振り返りの話です。

 

私は今、博士課程にいて研究をしています。

私なんかは本当に幸運なことに、この年になってもあれこれお金まで出してもらっています。

いつまでも働かず(バイトはしていますが)、戻ろうと思っても後ろにはすでに道はなく、そうまでしてなんで博士課程にいるのか。

最初は、会社勤めはうんざりしそうだし、だれかと難しいことを議論したり、新しいことを勉強したりといったことが楽しいから、もっとやりたいなと思って研究者の道を選びました。テキパキ行動するタイプでもないので、就活もせず、あまり考えてませんでした。

 

それでも何となく予感はありました。結局自分でやんないと、これからの社会はサバイブできねーんだろーな、と。

平成の頭に生まれ、地下鉄サリン事件、9.11テロ、二度の震災、あと、なぜか印象に残っていることとして、ロシアのグルジア侵攻、翻って経済の方は失われた20年がもはや30年か?みたいな状況であり、先日も経団連が、「終身雇用なんてなかった」なーんて言ってるのを見ると、自分で考える能力が必要なんだなといつの間にか考えていました。

 

そして、博士号は、実態に関するあれこれの議論はとりあえず置いておいて、問題すら定まっていないところからスタートし、ゼロから考え抜いて、いずれかの手段でそれを解く能力の証明なんだなと思うようになりました。

だから、本当にアカデミアに行きたいのかというとそうではないような気が最近はしています。もちろん、アカデミアはその能力を使いこなして生きていく社会である以上、最も望ましい進路のひとつではあります。

でも、この能力が役に立つ場所がどこかにあって、それでご飯を食べていけるならどこでもいいなという気がしています。実家に戻って家業を盛り立てるため頑張るのでもいいし、バリキャリのお嫁さん捕まえて、あれこれサポートするのも面白そうです。

そういう意味での完成形はやはり読書猿さんで、つい最近出たこの対談は自分にとってのロールモデルを一つ提示している気がします。まぁ足元にも及びませんが。

hatenanews.com

最近はうちのお父ちゃんも、いい加減金は出さんぞみたいなことを言い始めているようなので、もしかしたら博士を完遂できないかもしれません。特に自分は、自分の軸を持つことが大切で、その大きな部分を専門性が担っていると思っているので、その意味でもそういう事態は、自分のアイデンティティの問題として好ましくないでしょう。

でも、自分の当面のゴールがそうした知的サバイバル能力の獲得にあるならば、一時中断したり、別のルートをとることだって可能なのかな、と今は思っています。

30台フリーターでも、健康で本が読めればなんとかなるに違いない。

 

そんなわけで、今はともかく学会発表という修行を乗り越えて、能力獲得に邁進するときですね。

原稿と申請書とポスター作ってきます。

自分が修士一年の時点で知ってたらよかったと思うブログとか本とか

※この記事は、コースの飲み会で酔った勢いでなされた約束に基づいて書かれています。先生!とりあえず一本目は書きましたよ!

 

何を書こうかちょっと考えたのですが、これから研究が始まる修士一年生や修論を控える二年生がいるので、エラそうな目線で自分が研究するときにとても助かったものをコメント付きで挙げていきたいと思います。

 

1、読書猿氏のブログ

https://readingmonkey.blog.fc2.com/

何はともあれ全てはここから始まる。勉強法についての極めてシンプルな説明から、身もふたもない論文の書き方に関する記事、果てはコミュ力の鍛え方までそのレンジは広い。いろいろ言いたいこともあるのだが、一言でこのブログを表すなら、独学する人のための知恵と試行錯誤が詰まっているブログ。

千里の道を歩くための歩き方に関するブログなので、ムキムキになるためにどうしたらいいですかという質問に対して、筋トレしろと返すようなものが多いが、それでも独学という過酷な営みへ挑戦する者に対してとても寄り添っていると思う。

 

2、アイデア大全

3、問題解決大全

 

 

同じ著者が、上のブログをベースに書き上げたハウツー本、と思いきや、単なるハウツー本ではない。アイデアの生み出し方、問題解決の方法に関する人文書という看板が掲げられている。つまりこのテーマに関する古今東西の情報が網羅的に記されている。

私は、例えば、論文にもう少し突っ込みを入れたいときは、論文をじっくり読んでからバグリストを作ってみたり、事例を考えるときに現状分析ツリーを作ってみたり、という風に使っている。

まだまだ使いこなせているとは言えないが、考えるということを具体的な行動や作業へと変換することは、ぼんやりとあれこれ思考をこねくり回して結局何も出てこなかった、ということを防げる。

 

4、博士号のとり方

博士号のとり方[第6版]―学生と指導教員のための実践ハンドブック―

博士号のとり方[第6版]―学生と指導教員のための実践ハンドブック―

 

もともとは違う出版社から旧版が出ていたが、最新版の翻訳はこれ。

学生として、研究の方法だけでなく、博士号とは何か、研究を完遂するための指導教員との関係の築き方や、自分が体験するであろう心理的な変化などが具体的に書かれている。

ともかく、単なる研究の方法に留まらないのがいい。しかも著者らは社会科学系の教員なので、なにかと理系に偏りがちな気がする関連本の中で、文系に優しいと思う。

博士課程を少しでも考えるならまずはこれを読みましょう。ていうか私は学部三年の時にこれを読むべきだったよ・・・

 

5、論文作法

6、リサーチの技法

論文作法─調査・研究・執筆の技術と手順─ (教養諸学シリーズ)

論文作法─調査・研究・執筆の技術と手順─ (教養諸学シリーズ)

 

 

リサーチの技法

リサーチの技法

 

 問いを設定し、それについての情報を集め、集めた情報を分析して論文としてまとめるという一連の作業を、極めて具体的に説明したもの。

エコの論文作法は、実際に調べ物をする際にどのような行動をとるかを、実際の図書館を設定して説明してくれる。とても古い本なので、今はPCで検索という手段を使うが、それでも本質的な部分は変わらないと思う。

リサーチの技法は、問いの立て方の説明がとても詳しく書かれていると個人的に思う。特に抽象の階段の上り下りの仕方の説明がいい。自分の研究テーマを考えるときに常に付きまとう「その研究に意味あんの?(それがどうした)」という疑問に対処する方法を教えてくれる。

 

7、発声練習 http://next49.hatenadiary.jp/

とりあえず、ブックマーク順に並んでる記事を一通り読むのが良いと思う。

研究発表での質問の仕方、進捗報告のやり方、締め切り前のヤバい状況での具体的な対処法など、そのまま使える情報がたくさん載っている。

書いている人が大学教員なので、大学教員目線での院生指導の試行錯誤が垣間見えていいと思う。特に進捗報告に対する考え方とか。

 

とりあえずはこんなところで、また思いついたら追記したいと思います。

でもこうやってみると、読書猿氏が書いてるか、紹介した内容ばっかなんだよなぁ。

新学期始まりました

後期課程ともなると新学期だろうが何だろうがあまり関係ないんですが、それでも、研究室の古株になもなると、院生室や所属コースへの受け入れなどで、仕事も多少なりとも増えます。

そんな中、深夜バイトを始めるという意味不明さ。仕事は銭湯のお風呂掃除です。

先日第一回出勤を果たしてきたんですが、運動を数年単位でしていないヒョロガリにはきつい。

というかDにもなって肉体労働か、研究しろ、というのが当然なのですが、スポンサーの雲行きが怪しいこともあり、困ったときの肉体労働!の備えとして始めました。

とりあえず半年を目途に頑張りたいと思います。

 

黒柳徹子は、10時に寝て1時起床、5時まで書き物やその他の仕事、再度就寝、という生活をしてたとかそうじゃないとか。

 

読書メモ 山下範久編著『教養としての世界史の学び方』(東洋経済新報社、2019)

山下範久編著『教養としての世界史の学び方』(東洋経済新報社、2019)

ツイッターで編著者の山下先生や執筆者の石川先生が呟いて宣伝しておられた。

 

で、衝動買いして、とりあえずまず第一部。

何か書いておかないと何も残らないので、かなり端折って箇条書きで。

 

◎歴史とは何か
・神話と歴史の違い:経験的事実に基づくか否か
・しかし、「特定の社会の形を正統化する」という機能面に着目すると、そこに違いはない
 
◎現在の歴史学と近代
・現在の歴史学は、科学として真理を追究する知的生産の営みとして認識されている
・科学としての歴史学の特徴は、歴史が一回性と自己対象化の力(自らを観察し、それに基づいて自らを変化させる=再帰性)を持つために、個性記述的アプローチをとっている点にある
・ランケの歴史主義:過去の事象をその過去の文脈において理解せよ
 →現在の視点からの解釈を排除する
 →各時代には他の時代とは独立した全体性を有している(各時代に固有の視点がある)
・古代中世近代の三区分
・近代は、自己言及性を持ち、現代と地続きであるために、概念が伸縮する(これまでの時代と何が違うか、どの要素が近代を特徴づけるか、が論者の注目点に従って変化する)
 →主に2つの立場:15世紀後半からと18世紀末から
・近代そのものも区分できる
 →長い19世紀と短い20世紀 ホブズボーム
・近代に依拠することによって生じるバイアス3種:
 →近代の目的視(スタートとゴール、発展主義)
 →ネイション(社会変革の主体・単位はネイション、近代に向かって変化していない社会に歴史はない)
 →ヨーロッパ中心主義(三区分は非ヨーロッパに当てはめると、うまく妥当しなかったり、重要な要素を見落としがち)
 
◎近代を如何に乗り越えるか
グローバル化という視点
 →世界の一体化:15~18世紀の間に、複数に分かれていた世界が一つになり始めたと考える
 →非ヨーロッパを、どのような時代区分で考えるか?
  ⇒多様な諸社会を、外部との関係性の変化に注目して捉えなおす
 →非ヨーロッパがヨーロッパに組み込まれていく過程と捉えるのではなく、もともとあったつながり・関係性が変化していく過程と捉える
  ⇒近代を特徴づける関係性の様式とは何か?
ウォーラスティンの世界システム論:グローバルな格差は、近代化の速い遅いではなく、中心と周縁の間における横の関係性の両極化として捉えられる
 →世界システムの中か外か、という枠組みなので、結局のところスタートとゴールがある
 →それぞれ異なった「世界」があって、その間の関係性が変わると捉えると、バイアスによる見逃しが緩和する
・ヨーロッパと非ヨーロッパのそれぞれ別の世界は、19世紀に異なるコースを辿ることになったのはなぜか?という問いが出てくる⇒ヨーロッパを問い直すことにもつながる
・そうすると、今(近代)はゴールではなく過渡期
 →近代にも色々ある:歴史の終わりではなく文明の衝突、「グローカル化」
 →近代の時代区分は不適当:自然対社会の前提の元、近代歴史学は、自ら修正できる社会のみ着目してきたが、実際は人間がデザイン不可能な形で自然が社会に影響を及ぼしているから
→近代は人類の適応の一局面でしかない 
 
 
これまで我々が近代として認識してきたものの中に存在する特徴的な関係性の様式は何か、というのがこれからの考察や分析において気にしてほしい点ということでしょうか。
グローバルヒストリーとか、ちょっと前にはやった『銃、病原菌、鉄』、それから『サピエンス全史』は、自然の影響を問い直す流れにあるんだな。
 
序文で、この本の対象読者として新大学一年生が挙がってたけど、我が身を振り返ると、これを一人で読み切る自信はないな・・・という程度には、表紙詐欺

難民アシスタント養成講座を受講して

www.refugee.or.jp

この週末で受講してきました。タイトルで検索しても、内容に言及している記事などがあまりなかったので、参加を検討している人の参考になるといいなと思います。

何しろ参加費が社会人1万5千円、学生1万円で、遠方の人も結構多いので、交通費も考えれば躊躇してもおかしくない。

先に言ってしまえば、学生の人でも1万円払う価値はあると思っています。特に、学校や大学などでちょっとした知識は得た、あるいはボランティアやNGO団体の活動に参加したことがあるけれど、もう少し掘り下げた知識や生の情報をあまり持っていないという人には、本格的な調査や勉強に入る前に、問題分野のどこに目を向けるか見定めるいい機会になるように思います。

また、講師、参加者、資料のどの要素もレベルが高いように感じました。

まだ自分の中でまとまっていなかったり、書くべきでない内容もあるため、ちょっとしたコメント程度になりますが、どうぞご了承ください。

 

1、コンテンツについて

全体の大まかな内容としては次のようになっていると思いました。

  1. 制度の形式的理解
  2. 制度運用の実態
  3. アカデミックな視点
  4. 一連の過程で、難民が何を体験するか
  5. 市民社会が何をするか、できるか
  6. 議論

こうしたイベントに参加しなければ中々知り得ないのは、②,④,⑤かと思いますが、実際に難民認定を受けた方の体験談、申請を支援する弁護士や、ソーシャルワーカーの方のお話が充実していました。

特に弁護士の方の講義は、そのとても熱い人柄が感じられ、また実例を踏まえた講義は真に迫るものでした。この講義についてだけ、少し言及したいと思います。

講義内容としては、次のいくつかがポイントになるかとおもいます。

 〇現行制度は、運用面でどのように問題となっているか

  • 実際には使われていない名ばかり制度がある
  • 難民申請手続が、保護ではなく国境管理の手段として運用されている
  • 行政の能力が不足している(調査官、参与員の規模など)
  • 難民申請者の人権が保護されない(入管の収容施設での実態、申請手続きのアカウンタビリティーの欠如など)

こうしたことが、なかなかきつい実例を踏まえて説明されます。

最終的には、制度を国境管理と難民保護にわけ、後者のための専門制度を立ち上げることが必要だということが、一応の結論になるのかなと思います。

簡単な感想として、この分野の制度は圧倒的に洗練度が足りていない一方で、10年20年単位で管理重視という制度的方針が変わっておらず、保護の観点からは改悪ともいえる制度変更が行われていることを踏まえると、政治や国民のレベルで保護への転換が起きにくい構造がありそうだなと思います。

 

2、講師の方について

印象に残ったのは、多くの講師の方が、フェアな立場をとっておられる点にあります。難民申請制度が、必ずしも保護を必要としない人が滞在や就労の機会を得るために利用されていることを認めた上で、更に意見を述べられることが多かったです。こうしたことができるのは、制度や支援の中で生じる問題が簡単には解決できないことを受け入れてた上で、それらに真摯に向き合っておられる方々ばかりだからだと思います。

制度の外にいる人は好き勝手言えますし、中の人として仕方がないとはいえ、行政の方のお話はポジショントークっぽいところもあったので、図らずもそのコントラストが際立ってしまったなぁと思います。

 

 3、参加者について

もちろん、回によって異なるとは思いますが、質問や発言がコンパクトにまとまっていたり、鋭い視点を提示する方が多かったと思います。長々と質問する人がほとんどいませんでした。ディスカッションでも、どのグループも上手に回している印象で、こうしたことに慣れている人が多いな~と思いました。社会人の方が多いからでしょうか。参加費でスクリーニングもされているでしょうね。逆に自分の能力・訓練の不足を自覚して若干へこみました。

 

 4、資料について

制度的にも未熟なのもあって、日本の難民認定制度や日本の難民保護そのものを体系的に説明する本が多くない中で、参照されているデータや資料は、調査の足掛かりになると思いました。各講義ごとに挙げられている参考文献も新しいものが多く、これから増えていくんだろうなという感じがします。調べようとする場合は、多くは論文にあたらないとならないでしょう。そうでなければ、法的な議論が多くとっつきにくいものが多そうです。そうした中で、もらった冊子は文献リストとしてかなり有用な印象です。

 

〇まとめ

本当に簡単なコメントでしたが、以上のようなことがさしあたりもっている講座の感想です。本当はダメなところも挙げるべきなんでしょうが、あまりこの手のセミナーに参加したことがないので何とも言えないということはあります。それでも行って損したなと思うことはありませんでした。長くて、ちょっと疲れたなくらいでしょうか。そもそも持っている知識量などで感想も変わると思いますが、冒頭で述べたように、少し知っているけど・・・レベルの人にはドンピシャの講座になりそうです。

そもそも国際協力系のイベントはその多くが東京で開かれ、更に難民問題となると、学ぶ機会は地方ではいわずもがな、という感じです。その中で一定の質を保ったイベントを見つけるのは大変でしょう。関心がある方はとりあえず参加してみる、で飛び込んでも多くを得ることができる講座だと思います。

難民に関する国際法上の基本事項(プラクティス国際法講義第2版から)

  • 第七章から 個人の国際法主体性
    • 伝統的国際法では、個人の国際法主体性は否定されてきたが、近年では限定的に認められつつある。ただし、その要件はまだ定まっていない。
    • 個人の国際法上の権利能力
      • 「伝統的国際法においては国家のみが主体であって、個人(自然人および法人)は国際法上の客体とみなされていた」
        • ここでは、条約に基づく利害事項に関して締約国によって何らかの損害を被った個人は、当該締約国の国内的手続きに従うか、本国の外交的保護を求めるしかない。
      • 20世紀に入ると、個人の出訴権や請願権を認める条約が出てくる。
        • 1908~1918の駐米司法裁判所、1919ヴェルサイユ条約に基づく混合仲裁裁判所、1922上部シレジアに関するドイツ・ポーランド条約
        • こうした現象を捉えて、個人の国際法主体性を巡る議論が活発化する。
          • 初期の議論
          • その後
            • 国際的手続説:「現実に即して、個人の請求権を認める国際的手続の有無を基準として国際法主体性を判断するとの立場」
            • 実体法基準説:「条約が個人の法的地位や権利義務を明確に定めている場合には個人の国際法主体性を認めるべきだとの立場」
              • 国際的手続説に立てば、自由権規約の締約国の管轄下にある個人のみが、その権利能力を認められることになるが、関連する国際法の趣旨に照らせば、こうした差異を設けるの不自然であるという批判を行う
            • 国内裁判所も個人の国際法上の権利の執行を担保できるとの立場
              • 条約が個人の直接の権利義務を創出するわけではないが、条約の当事国が国内裁判所での執行を想定して個人に権利を付与する可能性を認めるもの(PCIJ 1928 ダンチッヒ裁判所の管轄権に関する事件)
          • ⇒現在では、個人の国際法上の権利能力の承認に関して、国際手続がなくてもこれを認める立場が有力である。
          • ⇒ただし、手続の有無によって権利保障の程度は当然に変わり得るし、たとえあったとしても、手続きの性質によって、保障の程度は変わる(国際裁判の判決と個人通報制度では状況は大きく異なる。)
          • 義務については省略(具体的には戦争犯罪など)

  • 第16章第Ⅲ節から 難民の国際的保護
    • 国際法における難民問題
      • 日常用語としての難民:「戦争や天災や政難などのために困難におちいった人民、あるいは、災難を避けて他の場所に逃れる人々のこと」
      • 主権国家システムが確立した後の難民は、上記の理由により、国境を越えて移動するひとのことを指すことが多く、国境を越えず国内で移動するひとは国内避難民として区別される。
      • こうしたシステム下の難民は、19世紀初頭から見られるが、難民問題に対処するための世界規模の制度・システムが構築されるのは第一次大戦以後のこと
    • 難民の庇護
      • 戦間期
      • 第二次世界大戦直後
        • 1946 国際難民機関(IRO)憲章
        • 1948 世界人権宣言 14条「すべての者は、迫害からの庇護を他国に求め、かつ、これを他国で享受する権利を持つ」
      • UNHCR
        • 1951 UNHCR設立
          • 難民の保護と支援を行う
          • 2003年までは時限機関だったが、それ以後は国連総会の補助機関となった。
          • 当初は、難民条約に定義される難民が対象だった(現在の「中心的マンデート難民」)
            • 「事後対応型」「庇護国中心」「難民重視」から「事前対応型」「出身国中心」「包括的」な活動へ転換中
      • 難民条約
        • 1951 「難民の地位に関する条約」難民のマグナカルタ
          • ①難民の一般的な定義を定めたこと、②難民に一定の権利を認め、難民の保護・支援が慈善でないとしたこと、の2点で意義がある
        • 第1条A(2)で定められる難民=条約難民
          • (a)1951年1月1日前に生じた事件の結果として、
          • (b)人種、宗教、国籍若しくは特定の社会集団の構成員であること又は政治的意見を理由に、迫害を受ける恐れがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、
          • (c)国籍国(あるいは常住所国)の外にいる者であって、
          • (d)国籍国(あるいは常住所国)の保護をうけることができない、又はそれを望まないもの
            • (b)の「迫害」について:冷戦下で、西側諸国が「自由の戦士」としての難民を保護しようとする動きが背景にあった。
            • (a)は1967の難民議定書によって解消された。
        • 第33条 ノン・ルフールマン原則(難民の追放・送還の禁止)
          • 難民の生命や自由が脅威にさらされる恐れのある領域の国境へ難民を追放したり送還したりしてはならないという、条約当事国の法的義務
          • 現在では、慣習国際法になっているという見方が有力
          • 国境地点での入国拒否にこの原則が適用されるかは不透明
          • 難民として認定された者には、各種の法的保護を与える義務が、当事国に課せられる。
          • 難民に庇護を求める権利が与えられるわけではない
          • 当事国に、入国を認めたり庇護を与える一般的義務が生じるわけではない。⇒難民のミニマム・スタンダード
      • 「新」難民
        • 現状では、従来の難民のみならず、UNHCRの援助対象者(person of concern)など、定義が拡大している。(純粋に経済的な理由による移動者は含まれない)
        • 日本の難民認定数は少ない。ただし、人道配慮によって在留を認めた者は一定数存在する。